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火の国 悠久の会 ふるさと芸能祭に出演

2007年2月「観光立県」を宣言する熊本に外国や全国から来熊されたお客様に心からのおもてなしをするため、無形民俗文化財である「郷土芸能」を披露し、熊本の良さを伝えることを目的に発足しました「火の国 悠久の会」の活動の一環として【火の国 ふるさと芸能祭】が開催されました。今回は2011年新幹線熊本開通にちなみ「新幹線がやってくる」をテーマーに小山良作の新作肥後にわかでは、明治時代にタイムスリップしたおてもやん役として、又ふるさとの民謡の部では【肥後五十四万石】【東雲節】【お陰まいり】を藤間白扇社中の踊りをそえて披露、フィナーレでは【牛深ハイヤ節】をにぎやかに披露し、会場から万雷の拍手を頂きました。



  

ブラジル紀行 6月21日

6月21日

いよいよ「移民百周年記念式典」の朝となった。晴れの大舞台何としても成功させねばの一念、朝練で最後の仕上げをし、団員の女性軍、年も弁えず、日本人女性未婚者の正装の振袖を着、着物に負けないような化粧(?)をしてサンボドロモ会場に向かった。この日は、徐々に雲行きが怪しくなり遂には時折強い雨が降る天気となった。しかし見物の観衆3万人は、雨合羽を着、パレード出演者1万5千人は様々な扮装で人種などに関係なくこの式典に続々と集まり、物凄いエネルギーが渦巻くお祭り会場となった。この式典は日伯に功労してきた先駆者たちと現住の全伯6万人の一世の方々を祝福するとともに、日系社会の新たな船出となる一大祭典だった。パレードのため特別用意された大トレーラに乗り込み、出番を待つ私たちに近くにいた多人種の子供達が大エールを送ってくれた。トレラーが出発すると同時に今まで降っていた雨も上がり、600メートルの会場を日本から持参した大うちわをバックに「ビバ・バンザイ100年音頭」「おてもやんサンバ」「さくらサンバ」を唄い、踊りながら進めば、大スタンドを埋め尽くした観衆から大声援が送られ、団長の藤尾さんは、皆さんに向かって深々と頭を下げておられ、団長として何としてもこのパレードを成功させたいという気持ちが伝わりまたまた感動。パレードが終わりトレーラーを降りたとき、皆で手を取り合って涙した。


パレードを終え、特別用意された観覧席に着くと、間もなく日本の皇太子殿下の車が大歓声に迎えられて到着。お祭り広場は、厳粛な式典会場となった。皇太子殿下ご着席の後、100年前に笠戸丸が出発したと同じ日に神戸港を出、2万キロの道のり越えて運ばれた「友情の灯」が日系六世の三歳の子供とその祖父母によって聖火台に点火された。日伯両国歌斉唱の後、上原百周年記念協会会長(9歳の時沖縄から両親と一緒に移民し、幾多の困難を経験しながらも、サンパウロ大学名誉教授にまでなられた方)、サンパウロ市長の挨拶に続き皇太子殿下のお言葉があった。その後、海上自衛隊の音楽隊、サンパウロ州軍警音楽隊の演奏が続きサンパウロ州騎兵隊の行進が展開された。さらに3663人のコーラス隊が「さくら さくら」を300人の踊りなどが披露された。まだまだ多くのアトラクションがあったが、帰路の混雑を考慮し、会場を後にした。

  

ブラジル紀行 6月20日

6月20日

昨夜ホテルに着いたのが12時近く、3時間足らずの睡眠でホテルを出発、国内線でサンパウロへ戻った。ホテルで朝食をとった後、舞台衣装に着替えて「サンパウロ日本文化記念週間」の公演としてエリス・レジーナ劇場での「日本民謡文化使節団特別公演」に出演し、サンパウロの皆様に日本の唄、踊りを堪能して頂いた。この日の公演は1つだけだったが、ホテル到着後は明日の式典に向け「100年音頭」「おてもやんサンバ」「さくらサンバ」の踊りの特訓をした。夜はサンパウロ新聞社の方や水本夫人、ご令嬢をはじめプルデンテから別れがつらく、サンパウロまで御同行下さった民謡愛好者6名をお客様にお迎えし夕食会が開かれ交友を深めた。皆様ご高齢にもかかわらず日頃鍛えた喉で私たちに民謡をご披露下さったあと、540kmの夜道を車でプルデンテへ帰って行かれた。 
  

ブラジル紀行 6月19日

6月19日
朝食後バスにて日本人墓地に向かう。既に日系の方々が到着しておられ、礼拝所にて開拓初期の苦労話や墓地が出来た由来などの説明を聞いた。100年前夢と希望を胸に家族で移民してこられた方々が、慣れない風土と過酷な労働の中で、次世代を担うべき若者や子供たちが先に命を落としてしまわれた事実を知らされ団員一同涙をこらえることが出来なかった。熊本から持参したお人形を墓前に捧げ、熊本の水を墓碑にかけてあげ、涙涙の墓参を済ませました


再び昨日の市文化会館に移動 そこでは現地の方々の民謡大会が開催されており、カラオケの伴奏で遠い日本のことを思い出しながら自慢の唄を披露されていた。その後100周年記念式、それに伴う表彰式に出席した。使節団員全員に記念品を頂いた他今回の使節団派遣で特に功労のあった方への感謝状の贈呈、私はなんと【ブラジル日本移民百周年記念/コメンダドール特別勲章】を世界平和文化機構から授与され光栄の至りでした。民謡婦人部の手料理(味噌汁もありました)で昼食を頂き、午後は我々使節団の「特別公演」が3時間半にわたって開催された。藤尾団長の名司会で副団長の佐藤先生の「はるか彼方は日本の空かよ」をはじめ、団員各々の自慢の唄や踊りで会場は、日本の風が吹き渡っていた。この模様は、NHKが取材し日本では【おはよう日本】の中で放映された。

この日のスケジュールの最後は、「市及び市議会主催の移民百周年記念祭典」に出席、15市の市長など名士の方々の列席のもと、移民後多方面で功績を残された日系人の方々の表彰式が挙行され、私はじめ数名の方が表彰状を頂いた。
ポルトガル語の挨拶は、ここでも理解できなかったが、日本人としての誇りと毅然としたお姿で矍鑠と挨拶をされた(汎ソロ日伯連合文化協会会長 纐纈俊夫)様のメッセージの時は、胸が熱くなった。ブラジル時間があるということ エンドレスの式典になりそうだったが、団長さんの機転で使節団は、先に「100年音頭」を披露させて頂き万雷の拍手のうちに退場しホテルへ戻った。
  

ブラジル紀行 6月17日 18日

 【慶祝/ブラジル日本移民百周年日本民謡文化使節団】として渡伯しました。日本の反対側24時間かけての渡伯でしたが、団員35名一同、もう1つの日本にまさに目から鱗の尊い経験をすることができ、まさに「感動、感激、感無量」の連続でした。

 6月17日
空路早朝サンパウロに到着後そのままバスで日系人老人ホーム「憩いの園」に直行ホールで私たちをずっと待っててくれた入居者に懐かしい日本の唄や踊りを届けた。
 
1975年建立された「日本移民開拓先没者慰霊碑」に墓参、日本から持参した名水と花を供え墓前ではるか彼方は日本の空かよの気持ちをこめて数曲の唄を献歌した

サンパウロ新聞社創始者「水本光任氏」の墓地でご高齢の未亡人とご令嬢に面会し、参拝した都市交通網のインフラが立ち遅れているためサンパウロ市内は車の大渋滞で次の場所に移動するのが大変だった。やっと宿泊先のホテルに到着早々舞台衣装に着替えて「熊本県人会館」へ向かった。会場には、在住の熊本県人会の皆様がたくさんの料理や飲み物を用意して下さり、懐かしい熊本弁で歓談の後「五木の子守唄」「おてもやん」「田原坂」などの熊本民謡を踊りを交えて披露した

 6月18日
この日は、今から百年前にサントス港に笠戸丸で781人の日本人移民が到着した記念すべき日でした早朝にホテルを出発、陸路をなんと540km、バスで内陸の日系人が拓いた町、プレジデンテ・プルデンテへ向かった。道中は、行けども行けどもさとうきび畑と牧場、さすがブラジル大国の広さに圧倒された。午後3時やっと現地につきホテルの玄関で熊本県出身の小野様の「よく来て下さいました」の固い握手を受けた時は、涙がこみ上げてきた。小休止の後正装に着替え文化協会会館に移動、ここでもまた日系の民謡愛好家の皆様の熱い熱い歓迎には、感動感動の連続だった。皆様ご高齢にも関わらず私たちのために沢山の手料理をp用意され、歓迎のご挨拶は、私たち日本人がすでに忘れてしまった「大和魂」を貫いた矍鑠としたもの、またまた涙、涙の感激でした
  
団員がそれぞれ持ってきたお土産や熊本から持参した浴衣などの贈呈のあと日本の食事とほとんど変わらぬ御馳走を頂き、近くの日本庭園に向かった。ここは、「日本移民百周年記念」を祝して再整備された公園で今回記念碑の除幕式典が開催され、野外舞台がかかり、在住の他国人種が約一万人集まり、荘厳な記念式典が挙行された。残念ながらすべてポルトガル語で挨拶の内容は理解できなかったが、式典の始まりは舞台の上で合唱団のブラジル国家と日本の君が代の斉唱には、心が清められる思いだった。また、舞台下の観衆の子供たちが姿勢を正して合唱団に合わせて歌う光景があちこちで見られ、これにもまたまた感動させられた。
 
その後舞台では、在住の日系人を交えた多人種の方々による和太鼓の演奏「海を渡って百周年」などの踊りが披露され、私たち使節団も今回の記念のため団長の藤尾氏が作詞、竹峰作曲の「ビバ・バンザイ100年音頭」をサンバ調の踊りを交えて披露すると、観衆からヤンヤの喝采をあびた。